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八月の壁 The Wall on August

  • 会期:2025.9.30(火)〜10.5(日)
  • 時間:10:00〜18:00(最終日は15:00終了)

 

MASAKI/painting

Y.YOKODE/photograph

 

 


 

ギャラリーG「八月の壁」展示コンセプト概要 

Y.YOKODE 

 

ある日、兄が祖母に爆死した祖父を捜索した7日の光景を聞いていたとき、「あんたが聞くから思い出す」と、突然怒り出した。私も祖母に付き添った母に、それを聞いていると顔をゆがめ「もう、ぐちゃぐちゃ」と言われ、それ以上聞くのがためらわれた。彼女らが「八月の記憶」を語るとき脳裏にはどんな光景が映し出されていたのだろうか。

 

中東アラブの研究者岡真理は『記憶/物語』において、記憶は私達の意志とは無関係に襲って来る。そして「出来事は記憶のなかでいまも、生々しい現在を生き」ていて、それはいつ襲い掛かるか分からない制御不能な「根源的な暴力を秘めている」と述べている。兄や私が、体験の記憶を祖母や母に聞くことは、脳の奥底に厚い壁で封印した記憶を無理やり壁の扉をこじ開けて取り出す、「暴力性」のある行為であるかもしれない。被爆の体験者がほとんどそれを語らないのは、襲い掛かる記憶の「暴力」を恐れたためではないだろうか。その記憶を封じ込める「八月の壁」はまるでナチスの強制収容所の光景をスキージで塗りこめたゲハルト・リヒターの抽象画「ビルケナウ」のようである。

 

 母のアルバムには、昭和17年に入学した広島県立第二高等女学校在校時や、戦後も交流した友人達との記念写真やスナップ写真が残されている。戦後の写真から受ける印象は、様々な経験を重ねながらも、何とか恙なく人生を送った市井の女性達の姿である。一方、同窓会の集合写真で一斉にカメラを見つめる彼女達の眼差しを見ていると、ほぼ全員の眼の奥くに「あの光景」の記憶が沈まっているかと思うと、不思議な感じがしてくる。彼女達も人生の折々に「八月の壁」の扉が何かの拍子で開き、記憶が暴力的に襲ってくることがあったのだろうか。しかし、被爆80周年を迎え、19458月第1週目の月曜朝の出来事を経験した彼女達も母と同じように多く鬼籍に入っただろう。それとともに個々の「八月の壁」も崩壊しただろうが、暴力的な記憶だけは主人を無くして行き場もなく広島の街を漂っているかもしれない。

 

 私達にとって被爆の体験者を失うとはどういうことだろうか。非体験者が出来事を知る手立ては体験者の語り、写真、映像、絵画、遺稿、文献、遺物、遺構があるが、ただ、体験者の語りとそれ以外とでは大きく異なる。体験者が語るとき聞き手にはもちろん具象的な記憶の映像は見えないが、表情、声を含めその身体的な所作からスクリーンが放つ光のようなものは感じられる。それは杉本博が映画1本分を長時間露光で写し出した劇場の光だけのスクリーンを見ることに似ている(「劇場」)。では体験者が放つその光は何か。それはアウラではないだろうか。体験者を失うことは、受け手が出来事のアウラを感じ、それに心が揺さぶられ体験者と共振できなくなることである。今後、非体験者はそのアウラの断片を手探りで探さないといけなくなった。

 

写真家石内都は広島平和記念資料館の被爆衣装を1着ずつ丁寧に撮影して着ていた本人のアウラの断片に近づこうとしているが(『Fromひろしま』)、街中でそれは見つかるだろうか。1958年、フランス女優エマニュエル・リヴァが、映画「ヒロシマ・モナムール」のロケ滞在中広島で撮った市街の写真には、バラック家屋など「出来事」を引きずる「戦後」の空気が漂っている (HIROSHIMA 1958)。一方写真家土田ヒロミは1980年前後の広島の街と遺構を撮影し、人々の日常意識から「出来事」の記憶が消えていっていることを語った(『Hiroshima Monument』)。その後広島の街は、市役所や日赤などが再建され、2000年代に入ると市民球場の移転や広島駅前整備、高層ビル建設、高速道路の開通、大型ショッピングモールの建設が進められ、それらを取り巻く住宅地も新築のマンションや真新しい住宅に建て替わり、土田の写真でかすかに「出来事」の空気を引きずっていた戦後の街並みは消え去った。リヴァの写真の中でアウラを放っていた広島県産業奨励館の遺構も真新しい街並みと周辺の喧騒に反して光彩を失い孤独に佇んでいる。 

 

 被爆の体験者と非体験者がともに暮らした戦後の街の景観が変わった今、私達は意識して街の中で幾重にも重なったレイヤーをはがすようにアウラの断片を探さなければならない。それは孤独に佇む被爆の遺構や樹木だけでなく、ショウウィンドウの光りが輝く街角や歓声がこだまする路地裏、帰りを急ぐ人々が渡る橋、その下を流れる川など、体験者にとって暴力的な記憶が襲ってきたであろう「生きられた場所」に佇み、日常を覆うレイヤーをそっとめくってみることではないだろうか。それがこれからもこの街で体験者とともに生きて行くことであるかもしれない。母は晩年趣味とした俳句で「初夏の夜 相生橋を 風渡る」と詠んだが、一方で思い出すから川の側には住みたくないとも言っていた。橋の欄干にもたれ、眼を閉じるとアウラの断片が川風と一緒に頬を撫でて流れていくかもしれない。

 

 今回の展示では、奇しくも被団協のノーベル平和賞受賞の昨秋に母の句集『ほたるかご』を刊行したのと、被爆80周年を迎えることを期して、戦後の度重なる街の変化の中でレイヤーのように隠されて行く被爆体験者の持っていたアウラについて、現在の街の景観写真や絵画などで考えてみたい。