「キセキ」~戦没オリンピアンの残した声~
髙田敏明
一本のオープンリールテープがあります。「オリンピックならびに写真について 髙田静雄氏語る(35年8月)」と記したテープには、戦前の広島の代表するアスリート髙田静雄のインタビュー・肉声が録音されています。
戦前は、砲丸投げでベルリンオリンピック(1936)に出場し、三度の日本記録を塗り替えるなど華々しい活躍をしていました。しかし、昭和20年の原子爆弾を爆心地から600mの勤務地、中国配電社(現 中国電力)で受けます。学徒動員で我が子を失い、もうひとりは大怪我、自分は原爆症で寝込んでいる生活でした。
そんな中、1954年に手にしたカメラ雑誌の中で、ベルリンオリンピックで知り合いになっていた写真家・金丸重嶺氏(当時:日本大学芸術学部長)が広島で撮影会のコーチで来る事を知り、戦前に心得のあった“写真”で再起をかける事となる。今とは違い手紙のやり取りで金丸氏を氏と仰ぐ。そして、アスリート誌に40週にわたる記事担当やコンテスト入選など、腕を上げていきます。
肉声のテープでは、1960年のローマオリンピック芸術祭では写真の部で入選を果たした
「キセキ・軌跡」が語られます。スポーツと芸術でオリンピック出場を果たしたのは彼がはじめてでした。当時の被爆者のインタビュー番組の存在は貴重と言われています。
また、1957年の写真の日コンテストで入選した「平和への道」は、平和公園で声をかけて撮影したアメリカ人夫婦のスナップで「これからは共に手を取り平和への道を歩こう」というメッセージを撮りました。春に撮られたこの作品は秋に東京で展示されました。そこに偶然に長期滞在でしたモデルの夫妻がお越しになりました。帰国寸前で焼き増しされたプリントは海を越えアメリカ・イリノイ州に届けられます。ここでまた「キセキ・奇跡」が起こります。当時の協会とのやりとりに「この一連の偶然こそが『平和への道』であろう」と記され、英文の発表もされました。
髙田静雄の展覧会は2度ほど行いました。東京・大阪・名古屋のキヤノンギャラリー、泉美術館。どちらも東京オリンピックの時期だったのでスポーツが重きで展示したが、今回は存在するインタビューテープを流しながら、ローマオリンピック芸術祭にチャレンジ、入選までを臨場感を持して、手紙のやり取りも含めてながら展示します。
また、彼が撮影に通っていた平和公園、彼の言葉では「中島公園」その作品もまとめます
戦後、被爆後 80年の今年、被爆したオリンピアン(オリンピアンで被爆しているのは彼ひとり)の肉声、それに沿った作品群。「語り継ぐ」のではなく、本人が「語っている」わけだから、特に意味のある展示と思います。
*被爆オリンピアン 肉声現存 13分 闘病・写真撮影語る 故高田静雄氏
https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=96465
*被爆オリンピアンの視点 砲丸投げ故高田静雄さん撮影 26日から東京など巡回展
https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=83987
髙田静雄 オリンピックならびに写真について 髙田静雄氏語る(35年8月)