日野公彦 & 山本尚志 2人展 「ニューフレンズ」
展覧会「ニューフレンズ」に寄せて
Text:山本尚志
書道の歴史を紐解いてみるに、それが必ずしも筆と墨の歴史に終始するものではなかった事は、今日言うまでもない。
すでに我々は筆を捨て、ペン書きの時代になり、さらには、活字、そして今では電子文字(フォント)の時代に差し掛かってきた。
その上で、今なぜ我々が書道家を名乗ることができるかといえば、それは、その身体性を持って言語的な芸術活動をする、その一点に尽きるだろう。
ただ久しく書道界は、師匠からお手本をもらい、そのお手本の出典は、中国や古代日本の詩歌を頼りにしてきた。つまり、書道はそれら文学の二次的産物となっていたわけである。
このことは度々問題にされてきたが、彼らにとってみれば、書道の本質はその文学性にあるのではなくて、身体性、つまり筆の動き(または筆さばきの技術)にあるのだと、自らの存続というその目的を成り立たせるために、伝統派も前衛派も立場は違えど、同時に口を揃えていたのである。
特に前衛派は、文学はもとより書道が文字記号の縛りから解放されることを歓迎した。その動きにこそ、書道の本質があると言い切ってしまったのである。
それは1955年に後に世界的な芸術家となる井上有一も実践したことだ。文字を一つの束縛と考えて、そこから逸脱しようとしたのだ。しかしその営みはたった1年で終わりを告げることとなる。なぜならば、彼にとってそこに答えはなかったと見極めたからにそれは他ならない。
彼の没後34年を経て、今ここにわれわれは2人展を行う。それは奇しくも井上有一のカタログレゾネの編集作業を手伝った元アルバイト2人の展覧会となった。日野公彦と山本尚志は、ともに学生時代に美術評論家・海上雅臣氏の薫陶を受けて育ったのだ。
この2人の共通点は、書道は言語アートに他ならないという態度である。
今回日野は、自宅近くのスナックの看板の灯を見て、その屋号である「ニューフレンズ」と書いた。
考えると、書道の新たな潮流である、現在の状況は「新たな友人たち」と呼べるものである。日野が「ニューフレンズ」と無意識的に、オートマチックに書いたことと、決して無関係ではないと思うのだ。
さらにそれはシュールレアリスムのアンドレブルトンの自動筆記から、ストリートアート出身のジャンミッシェルバスキアによるオイルスティックで書かれた文字作品までを俯瞰した、まさに「筆記すること」を現代アートの取り組みとして行った事例の一つであることは間違い無かろう。
私(山本)の作品について解説を加えるなら、私は名詞の持つ恣意性に着目し、「これは何であるか」という目の前の事実を認識することから始まり、近年では「なぜ自分がそう書いたかの理由を作品自体の中に探すこと」という、書道が何枚も何枚も紙を費やしながら真理に至らんとする過程、即ちその同語反復的な所作を用いて考察、内省することを主に実践してきた。作品「入口」はその過程の中から生まれたものである。
最後に、本展は大和プレス代表・佐藤辰美氏の企画協力により行われるものである。氏のご厚意に心から感謝の意を表したい。
(やまもとひさし。書家、現代アーティスト)
日野公彦 Old bar – New Friends 2019
山本尚志 タオル 2019
@Hisashi Yamamoto, courtesy of Yumiko Chiba Associates