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河野令二 遺作展 木のかたち

  • 会期|2023.5.2 tue – 5.14 sun
  • 休廊|月曜 Closed on Monday
  • 時間|11:00〜19:00(Last day〜16:00)

     

  • ギャラリートーク 5.6(土)14:00~
    ゲスト|花野均さん(画家)、瀬戸理恵子さん(美術作家)

 

2022年5月に急逝した河野令二さんは、木を素材とし、椅子ややじろべえなどのあそび心溢れる造形を多く生み出しました。
河野さんが人生を通して探求した「木のかたち」の面白さや可能性に触れる展覧会です。

 


 

木とつきあうことでつかんでいける過去、現在、未来を考察していました。
長く工作、工芸の教員として広島、山形、山口の皆様と交歓を重ね豊かな人生でした。
作品は皆様との交流の中で作り出しました。
ご鑑賞いただけたら幸いです。

(河野俊子)

 


 

河野令二 こうのれいじ

1950年2月 茨城県生まれ
1973年3月 東京学芸大学 教育学部 特別教科美術・工芸教員養成課程 卒業(教育学士)
1975年3月 東京教育大学(現 筑波大学)大学院教育学科研究科修士課程 修了(芸術学修士)
1975年4月 広島大学付属中・高等学校教諭
1978年 行動美術展 東京都美術館(82,83,84)
1981年 モダンアート展 東京都美術館(84,85,86,87,88)
1984年4月 広島大学学校教育学部非常勤講師(併任)
1985年 広島‘85展 広島県民文化センター(86,87,88,89)
1986年 壁画― 空のかたち 広島大学付属中・高等学校研修館
現代日本絵画展 宇部市文化会館
1987年 広島アートウィーク‘87 広島県民文化センター(88,89)
個展『・の・かたち』画廊フォックス(広島市)
ライトアップストリートギャラリー 広島銀行八丁堀支店
広島県美展 広島県立美術館(88,89,90,91,92)
1988年 朝日現代クラフト展 阪急百貨店(大阪、東京)(89,90,91,92,93,95,00)
関西モダンアート展 倉敷市美術館
1989年 デザインフェスティバル広島 広島県情報プラザ
ライトアップストリートギャラリー 安田信託銀行広島支店
5人展 ギャラリーナカザワ(広島市)
1990年 公募広島の美術 広島市現代美術館(92)
オブジェプラスオブジェ展 ヤマハリビングシティ広島
日本クラフト展 入選 松屋百貨店(東京)(91,95)
現代木刻フェスティバル 関市文化会館(92,94)
ライトアップストリートギャラリー 安田信託銀行広島支店
1991年 伊丹クラフト展 入選 伊丹市工芸センター(92,94,95,96)
伊丹クラフト展 入選 伊丹工芸賞(93)
広島クラフトデザイン協会展 三越百貨店(広島市)
広島市文化振興事業団設立10周年記念「ひろしま美術展」三越百貨店(広島市)
ライトアップストリートギャラリー 安田信託銀行広島支店
1992年 5人展 朝日ギャラリー(広島市)
広島クラフトデザイン協会展 アルパーク天満屋(広島市)
1993年10月 山形大学教育学部助教授
1995年4月 山形大学大学院教育学研究科工芸、美術科教育
1995年 用と美のクラフト 伊丹市工芸センター
1997年4月 東北芸術工科大学非常勤講師(デザイン演習)
1997年4月 山形大学教育学部教授
2003年 妻有アートトリエンナーレ(新潟県 松代町)
2004年 工芸研展(山形大学教育学部工芸研究室展)ナナビーンズ(山形市)
2005年4月 山口大学教育学部美術教育教授
2006年8月 木・椅子・かたち ギャラリーてんぐスクエア
2009年8月 木・椅子・かたちⅡ ギャラリーてんぐスクエア
2010年1月 河野令二&天平窯展 ギャラリーナカノ(山口市)
2011年5月 美術三人展 ギャラリーナカノ(山口市)
2012年8月 木・椅子・かたちⅢ ギャラリーてんぐスクエア
2013年2月 河野令二展 木のかたち ギャラリーナカノ(山口市)
2013年9月 河野令二(木工) 佐伯千尋(日本画)展 ギャルリー小川(宇部市)
2015年2月 河野令二展 木のかたちⅡ 山口井筒屋
2015年3月 山口大学教育学部美術教育教授 退官
2017年4月 河野令二(木工) 佐伯千尋(日本画)展 ギャルリー小川(宇部市)
2018年10月 木のかたちⅢ  g a l l e r y G(広島市)
2019年 はつかいち木工研究会参加
2022年5月 永眠 享年72才

 


 

 

ギャラリートーク

2023年5月6日(土)14:00〜15:00
会場|gallery G
ゲスト|瀬戸理恵子(美術作家)・花野均(画家)
進行|小竹弘
写真・文字起こし・編集|松波静香

 

 

小竹弘:今日は、河野先生の旧知の友人である画家の花野均さんと、広島大学附属中高時代の生徒でもあり現在も美術作家として活躍されている瀬戸理恵子さんをお迎えしています。

私はピカソ画房というところに長くおりまして、先生とは広大附属の時代から知り合いです。その後の展覧会をずっとお手伝いしてきたご縁で、今回もご家族のかたと一緒に展覧会を作ってきました。

それではまず瀬戸さんからよろしくお願いします。

 

瀬戸理恵子:河野先生との最初の出会いはもうずいぶん前で、中学1年の時でした。第一印象は、えらく若くて、ぶっきらぼうな先生だなと思いました。美術の授業で提出時間の間際に「これくらいでいいですか」って作品を見せて聞いたら、「あぁいいんじゃない?それ以上やったらもっとひどくなるから」って。(笑)ずいぶん嘘がない正直な先生だなと思いましたね。

 

次の出会いは、それからまた何年も経ってからです。私は東京の美大に進んだあと、広島大学の大学院の美術教育専攻に進みました。4月か5月の土曜日の午後だったと思いますが、東雲分校の階段で偶然出くわしたんですね。「先生、なんでここにいるんですか!」「瀬戸、お前こそなんでここにいるんだ?」と。そこで初めて、先生が広島大学で非常勤講師をされていることや、広島で作品を発表されていることを知りました。先生の方も、私が美大に進んでその後広大の大学院に来ているということをその時知ったわけです。

 

それからまた数年経ったある日、突然先生から電話がかかってきました。「今度県民文化センターでヒロシマ・アート・ウィークというのをやるんだけれども出品してもらえないか」と。そのころ先生は、花野さんやまつだなるさんなどと一緒に、現代アート系の作家さんが中心になって、特にフリーの作家に声をかけ、会派を超えたグループ展をいろいろ企画されていました。私は制作を細々と続けてはいましたが、広島で発表する意義があまり見出せずにいました。でも、先生の活動を見て、いつか私も展示できたらいいなと思っていたので、とても嬉しいオファーでした。すぐに参加しますとお返事をしました。

その後、広島で個展をしたり、当時開館したてだった広島市現代美術館の公募展にも出品したりしました。先生に声をかけていただいたことが、私が広島で発表する道筋を作るきっけにもなったんです。

 

先生は必ず私の作品を見に来てくれました。そして、必ずストレートな意見や感想を伝えてくれました。そのころは、オープニングや搬入・搬出の流れで飲みにいく機会が多くて、よくご一緒しました。お酒が入ると先生の言葉はさらに鋭くなりました。「瀬戸、お前の作品にはエロスがない」とか、人前では口にできないようなこともおっしゃって。(笑)先生の言葉は、私が広島で発表することの大きなモチベーションでしたし、一つの指標・指針でもありました。

 

でも、数年すると広島での活動にだんだん不自由さを感じはじめました。私みたいな一匹狼みたいなのは居づらいような空気があったんです。ちょうどそのころ、先生が広大附属をやめて山形大学に行かれることになりました。これで広島で一番作品を見てもらいたい人がいなくなる、と思いました。それで広島に引き留めるものがなくなり、私はアメリカ留学を決心し、95年の夏にペンシルベニア大学の大学院に進みました。

 

でも、半年ぐらい経つと理想と現実の違いに気付かされることになります。アメリカは自由な場所で、しがらみなどないと信じていました。でもそんなこと全然なかったんです。先生も生徒も作品もひどいのに、言葉ばかり捲し立てているように感じて、「なんで来てしまったんだろう」と数ヶ月悩んで、あらゆる人に相談し尽くしました。そんな時期に、先生からお手紙をいただきました。1通だと記憶していたのですが、今回のために当時の手紙を探してみたら、引き出しから2通出てきました!

 

最初の1通の消印は1996年の4月です。「元気ですか、そちらも雪はすごいですか」。「僕はというと、20年教育の現場にいた根性みたいなものが抜けずにいる」と。そして、ものをつくる動機みたいなものがなかなか見つけられずにいると。それに続いて、「最近ヤジロベエに凝っている」とありました。先生の動く作品というのは、この頃にスタートされたんじゃないかと思います。それからアレクサンダー・カルダーについて書いてあって、最後には「なかなか手紙を書けずに申し訳ない。元気で」と結んでありました。

この手紙を受け取って、最後に相談できるのは河野先生だけだと思った私は、先生が帰宅されて1人でいるであろう時間をねらって国際電話をかけました。そして悩みを先生にぶつけたんですね。先生は私の話を聞いてくださったあと「どうしても我慢できないのか」と言いました。私は「・・・どうしても我慢できないほどではない」と。そして先生と話す中で、もうちょっと考えてみようかという気持ちになったんですね。1時間近く話ました。かなり電話代はかかったと思います(笑)。でもそれで私はその時の状況を受け入れ、フィラデルフィアに残って大学院で制作を続ける道を選びました。

 

そして、すっかり忘れていたもう1通の手紙ですが、消印が1997年の2月14日とあります。「元気ですか、大学生活もあと数ヶ月みたいですね。僕はというと・・・」と、まずは日本の閉塞感について書かれていて、先生自身も閉塞感に塗れていると。だけど「季節労働者のように椅子を作っている」とあります。今展示している椅子のどれかは、この時の先生が作っていたものだと思います。

手紙の真ん中には「制作をしていますか。それしかないと思います」と書いてありました。この言葉は今読んでもすごく響きます。こういう言葉は本当に作り続けている人にしか言えません。先生も山形で独り悩みながら作っていて、それを遠く私に届けてくれたんです。それから、最近ポロックのビデオを買ったとか、ロスコの絵がどうのとあって、最後には「今後どうするか決まったら伝えてください、元気で」と締めくくられています。

 

私はその数ヶ月後に大学院を終え、まだ自分を試したいとニューヨークに行きました。先生には必ずやそのことを手紙で伝えていたと思います。

先生に習ったのは中学校1年生の美術の授業だけ。週2時間、たったの1年です。あとは断片的にお話をしたり作品を見てもらったり、飲みに連れて行ってもらったりお手紙をもらったり。それだけなんですね。でも、河野先生に対しては本当に恩しかないです。

私が今日まで作家を続けて来られた理由はいくつもありますが、そのうちのひとつは確実に河野先生と出会えたことです。恩師と言える人は河野先生しかいません。

 

さらにもう一つ。私は制作と発表を続けながら、「教える」ということをずっと続けています。「教える」ということは素晴らしいことですが、特に美術を通して人を教えるっていうのはものすごく切ない部分があって、何度も挫けそうになりました。でも、なんで続けて来られたか、それはたった一人いい先生に出会えたからです。

 

先生は教える以上に、「人を作った」んだと思います。私も先生に作ってもらった人間のひとりだと。私が教えることを使命のひとつだと感じられるようになったのも先生がいたおかげです。

 

最後にもうひとことだけ伝えたいことがあります。河野先生のお嬢さん未保子さんは、実は私の予備校の教え子なんですね。未保子さんが美大で建築を学ぶ道に進んで、今東京で設計に携わりものづくりをされているというのは、私にとってすごく感慨深いものがあります。

 

私の思い出が、先生の作品をもっとわかっていただくことにつながればと思います。

ありがとうございました。

 

小竹:ありがとうございました。それでは花野さん、河野さんとの思い出や作品について、お話しいただけますか。よろしくお願いします。

 

花野均:河野さんは40年来の友達です。最初に作品を一目見て、この人はきちんとものを考える人だと、すぐ信用できた。

 

僕は絵を描くんですけれども、「自分の感性を信じてのびのび描きなさい」ゆう言葉をよく聞くんですよ。でもそれで絵は描けません。絵を描くゆうのは、数学の方程式を解くようなもんなんです。一番最初は足し算から始まって掛け算、割り算、一次方程式、偏微分方程式、重積分・・・そういうふうなレベルがあって、私はどの段階までは解ける、というのがあると思うんです。「絵を描く」ゆうのも、河野さんが「作品を作る」というのも、みなどの段階か、いう話です。感性は必要ですけれども、自由にのびのびというような無責任な話じゃない。

僕は絵描きですから絵で説明しますと、たとえば白紙が1枚あってりんごを1個描くんだったら、プロならここにりんごを描くよねゆう位置は3パターン以上はありません。空間を描くか、存在を描くかにもよるけども、りんごが2個ならここ、3個ならここ。それが分かるのが、レベルです。そういうように体系づけてものを考える。だから、河野さんでもきっとそうだと思うけど、僕なんかは人の絵を見て、上手いとか下手とかいう言い方はあんまりしません。「理に叶うとるかどうか」ゆうふうに見ます。単にデッサンがうまいとかではなく、ものづくりには社会通念が必要で、全人格でもって向き合うとるかどうかです。

で、彼の作品見ると、みんな理に叶うとるんですよね。高いレベルで仕事しとるゆうのがよくわかるんです。

 

ものづくりに必要なのは、職人の気持ちと、アーティストの気持ち、ふたつあります。

みなさんがお座りになっとられる椅子を作るのは、職人仕事です。職人ゆうのは、図面さえあれば、なんでも百個でも千個でも、同じ性能・機能を持ったものを作る、そういう熟練した技です。椅子を作るのに、職人の技がなかったら作れません。

アーティストゆうのは、熟練した職人の技術のベースを持って、自分の中で革命を起こすというか、「こんなん見たことがない」ゆうものを目指していくんです。だから、突然変異みたいに、ピカソとかアンディーウォーホルとか、瀬戸さんとか、そういう優れもんが突然現れるんですね。

 

つまり、「職人仕事で何を作るか」ということです。河野さんは、丁寧に手抜きをしない理に叶った確かな技術でもって、何を作るかゆうことにも全人格でぶちあたっとった。自分自身を高みから見ることができとった人だし、仕事にプライドも持っとったと思う。

 

僕がこの中で好きな作品が2点ありまして、一つはヤジロベエです。ヤジロベエゆうのはどこがすごいかというと、勝手に動くんですよね。僕らが一番嫌うのは、作品の意図が見る人にわかること。それを俗に「臭い」ゆう言い方をするんですけど、臭い作品は下品なんですよ。逆に無作為に作っとるような、意図が感じられないような作品は、上品さを持っているんです。ヤジロベエは勝手に動きますから、作為じゃないんですよ。だから、これ一番、究極のひとつなんです。

もうひつはこれなんです。茎に葉っぱが一個だけ。こういうのはね、思いつきでもできるんですよ。だけど、思いつきでやるんと、いろんなことを知って、その上で開き直ってやるゆうんは違うんですよね。

 

 

歌舞伎役者の人が、「型破りゆうのは型を修めるからこそできる」ゆうことを言っていますが、イメージ通り椅子や小物を作る職人の技術がある人間が、アーティストの革命気分で、いつも新しいことに挑戦しようとしてできる「型破り」なんです。そういう凄さを感じます。

 

河野さんの作品は「頭ん中では漢字やアルファベットで考えて、ひらがなで見せる」。そういう作品なんですよ。みなさんもし河野さんの作品を手元にお持ちだったら、死ぬまで飽きることはない思います。見た目は簡単そうな、だれでもできるような品物ですけど、このあったかさゆうのはそんなにできるもんではないです。

そういう目で、今一度ご覧になっていただけたら、彼も喜ぶと思います。ありがとうございました。

 

 

小竹:ありがとうございました。

僕もいくつか河野さんの作品を持っていますが、箱の中にお猪口を入れています。蓋を開ける時に河野さんを思い出して、「今から河野さんと飲めるな」というような気持ちになるのが嬉しいんです。作家の方はうらやましいですよ。今回もこう言う形で遺作展をさせていただきましたけど、亡くなっても作ったものがこうやって遺って、それをみなさんが見て愛でることで、その人が心の中に生き続けるような。作家さんはそういう強みを持っているんですよね。

 

 

(2023.5.17掲載)


 

 

※この展覧会はHAGW(Hiroshima Art Galleries Week)と連携しています

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